東京高等裁判所 昭和35年(う)972号 判決
被告人 斉藤忠司
〔抄 録〕
検察官の控訴趣意は、要するに、原判決が、公訴事実中現住建造物放火未遂の点について、証拠により十分これを認め得るにかかわらず、犯罪の証明なしとして無罪を言い渡したのは、事実を誤認した結果であり、その誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない、と主張するのである。
ところで、記録を検討し、原判決がその無罪とした理由の説明中その挙示の各証拠によりそれぞれ認定するに足るとして摘示した、本件の出火に関する(一)ないし(三)、被告人に放火の動機ないし原因が存したか否かの点に関する(一)および(二)、ならびに本件出火前後における被告人の言動に関する(一)ないし(三)の各情況事実を総合すれば、検察官所論のとおり、単に原判決の言うように「被告人が放火したのではないかとの疑が多分に存する」程度にとどまらず、点火の方法の点は別として、被告人が公訴事実掲記の動機方法によつて、同掲記のとおり人の現住するアパートの押入内に放火したが、直ちに発見消火されたため、わずかに同所在の行李および在中の衣類若干を焼いただけで家屋焼燬の目的を遂げなかつた事実を認めるに十分であるといわざるを得ない。原判決は、「本件放火の方法が明確を欠き、公訴にかかる手段方法による放火と認むべき証拠は全く存在せず、捜査の段階における供述も真実に反する疑がありそのまま措信できない以上、本件出火が被告人の放火行為に起因するものと断定するには未だ証拠が不十分であるといわなければならない。」というのである。なるほど本件出火の原因について被告人が捜査官に対し述べたことは、その原審公判における供述内容とも異り、原判決の説明するとおりの事情に照らしとうていこれを措信し得ず、またその公判において述べたところも、当審において取り調べた証人長岡敬子の供述と対比すれば、これまた虚言と認めざるを得ない。したがつて本件の放火が具体的にどのようにしてなされたかこれを明確にすべき直接証拠の存在しないことは、まさに原判決の説くとおりであるけれども、しかし被告人が出火の原因ないしこれを発見した模様について前述のようにことさらに作為して虚構の事実を述べていると認められることと前掲各情況事実とを考え合せると、本件はまさに、公訴事実にあるとおり、被告人が故意に居室の押入の仕切板の節穴から隣室亀田方押入内の蓋の開いた行李の在中品の上にガソリンを流しこみこれに点火したものと断ずるのが相当である。被告人が進んで真実を述べず、かつ目撃者もいない以上、はたして公訴事実にあるとおり「火の点いたマツチを落して」点火したものかどうか、通常推測される方法であるとはいえ証拠上ただちにこれを断定するわけにはゆかないにしても、しかし何らかの方法によつて点火の処置をとつたものと認めても決して経験則にするものではないし、またこの点判決にその具体的方法を明示しなくとも事実の特定を妨げるものでない。結局原判決は、有罪と認定すべきものを無罪とし、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認を犯したものといわなければならない。
よつて刑事訴訟法第三九七条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書の場合にあたると認められるので、ただちに次のとおり自判する。
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和三四年二月八日ごろから東京都大田区東蒲田四丁目三七番地アパート「寿荘」こと地引八重子方の四畳半の部屋一室を借り受け内縁の妻長岡敬子とともに居住していたものであるが、金銭に窮した末、右アパートに放火し同家と共に家財を焼燬して日動火災海上保険会社と家財につき締結した火災保険金三十余万円を入手しようと企て、同年三月二一日午前五時過ぎごろ、同室の押入れの真下が隣室の亀田彦治方の居室の押入れになつていたとこから、被告人の居室の押入れの仕切板の節穴から右亀田方押入れ内の蓋の開いた行李の在中品の上にガソリンを流しこみ、これに点火したが、ただちに右亀田に発見消火されたため、同人所有の右行李および在中の衣類若干を焼いたにとどまり、同家屋焼燬の目的を遂げなかつたものである。
(兼平 足立 関谷)